1616BBS 無料レンタル掲示板 空の下 手のひらの恋…

手のひらの恋…その10話
作:中村千恵子


「イサムさん、そろそろ終電が無くなりますよ。
そうなる前に今夜の宿に行かないと。
ーーーどこです?
私、送ります」

チエが時計を気にして言いました。

「宿は、ビジネスホテルにでもと思ってたんだけど。
この近くに空いてるところがありますかねぇ~?」

「えっ、 今から予約を入れるのですか?」

「はいぃ~。
なるべくなら駅のそばがいいけど。
ほら、場所がわがんなくなるとアレだから…」

「あのぉ~、今からじゃ無理だと思いますよ?」

「なして?」

「だって、空いてるビジネスホテルなんて無いでしょう?…」

「東京にはビジネスホテルが山のように有るのに?」

「はい。予約無しじゃ、まず無理かと。
みんな予約されてるだろうから」

「はぁ~?
ーーーー秋田はイキナリでもビジネスホテルなんか選びたい放題、選り取りみどりだけど?」

「イサムさん、ここ、東京です…」

「んじゃ、カプセルホテルでも探そうかな?」

「それも無理かと!!
今は外国人に凄い人気なの。
それを売りにしたツアーがあるのよ。
だから、カプセルホテルも漫画喫茶もネットカフェも何日も前から旅行会社の予約で埋まってしまうの」

「はぁ~? そうなんですかぁ~?」

「…そうなんです」

「…ですか?」

「…残念ながら、ですね」

イサムとチエはシュンと項垂れてしまいました。

チエは暫く考えていましたが、すっと顔を上げると言いました。

「あのぉ~、私の家で良ければ泊まってください。
そうです、是非、そうしてください」

イサムは驚いた顔をした。

「…今度は私がイサムさんを助ける番です。
ほら、あの日のお返し。
イサムさん、前に私に言ってくれたでしょう?
(困った時にはお互いさま)って。
だから、うちに泊まってください」

それを聞いたイサムは少し怒ったような顔をした。

「チエさん、ダメです。
男と女は訳が違います。
チエさんは結婚前の若い女です。
一人暮らしなんでしょう?
だったら余計にダメです。
知らない男を泊めるなんて。
そだ、ふしだらなことをしてはダメです」

それを聞いたチエはプッと笑った。

「何か俺、おかしなことを言いましたか?」

イサムはキョトンとした。

「だって、知らない男…って。
私が泊まっていってくださいと言ったのはイサムさんに…ですよ。
あなたのことです。
…私はイサムさんを知っているし、知らない男ではないわ。
…それに私たちは付き合うのですよね? その、結婚を前提に!!
だったら何の問題も無いじゃないですか?」

チエは顔を赤らめて言いました。

「確かに俺は付きあってください、と言いましたよ。
そして返事もいただいて、これから、そのぉ~、付き合うようになるのでしょう。
いえ、なります。
だけど、それとこれどはまた別の話です。
結婚前のうら若いチエさんが、男を家に泊めたなんて悪い噂が立ったら傷つくのはチエさんですよ?
そんなことがあってはならんことです」

「それなら問題など何もないわ。
東京の人間はみな、他人には無関心ですもの。
私が誰を泊めようが誰も気にしないし噂なんて立ちません。
だってお隣さんとも付き合いがないのが東京なんですよ。
それに一つの部屋にイサムさんと私が泊まるわけじゃないから安心してください。
私はいつものように自分の部屋で眠りますのでイサムさんは母が使っていた部屋で休まれたらいいわ」

チエは自分を納得させるかのように言いました。

「ダメです、ダメです、それでもダメです。
おなごがそんな軽々しいことを言うちゃならんです。
…それに俺、自信ないですから」

チエは首を傾げた。

「自信が無いって? 何がです?」

聞かれたイサムはチエに背を向けるようにして言いました。

「何が…って、それは~。
俺、嬉しかったです。
こうしてまたチエさんに会えたこと。
チエさんとお付き合いできるようになったこと。
ものすごく嬉しいです。
それに、泊まってくださいと言ってもらえたことにも涙が落ちるぐれぇに感激しました。…本当です」

そう言うとイサムはクルリとチエの方に振り返りました。

そして、真剣な顔をして話を続けました。

「でもね、でも俺はやっぱりチエさんのお宅には泊まれません。
俺は男です。
ごく普通の健康な男です。
だから、惚れた女と一つ屋根の下にいて、その…要するに理性が…。
理性を保てるか自分でもわからんのです。
まして今夜は、しこたま呑んでしまった。
俺は自分を押さえきれるか自信がないです。
それに俺はチエさんに清く正しく美しくあって欲しいです。
チエさんの優しさは馬鹿な俺にも痛いほど、よぐ分かります。
だから尚更ダメなんです。
世間は自分が思っているよりも狭いもんです。
どこで誰が見ているかわかったもんじゃない。
世の中には物事を面白おかしく言う者もおります。
俺は何を言われてもいい。
人様(ひとさま)から後ろ指を指されてもいい。
んでも俺は、そんな危険にチエさんを晒したくは無いのです。
チエさんは、汚れちゃならんのです」

イサムは熱を帯びた目をして言いました。

チエは、そんなにも自分のことを大切に思ってくれているイサムの深くて温かな心を有り難く思いました。

「わかりました。もう泊まって下さいなんて言いません。
でも私も今夜はイサムさんと一緒に過ごさせてください」

「チエさん、俺なら一人で大丈夫です。
俺、その辺で適当に時間を潰して始発で帰ります。
俺から強引に呼び出しておいて、こんなこと言うのは、おかど違いだけど、もう~遅い時間です。
チエさんは家に帰ってください。
今、タクシーを止めますから」

イサムはそう言うとタクシーを止めようと通りに歩み出ました。

チエはタクシーを止めようとするイサムの腕を掴むと言いました。

「あの夜、イサムさんが私と居てくれたように今夜は私がイサムさんのそばにいます。
あの日、私は不安で心細くて寒くて凍え死にそうで、どうしたら良いのかわからなかったの。
そんな私を救ってくれたのはイサムさんです。
私、本当に嬉しかったぁ~。
イサムさんがいてくれたから私は救われたの。
だから、そばにいさせてください。
いいえ、私がイサムさんのそばに居たいの」

それを聞いたイサムは照れくさそうに下を向いてしまいました。

チエはイサムの腕を掴んだままキョロキョロとビル群に目をやり、何かを探していました。

やがてチエは、その何かを探し当ててイサムに言いました。

「イサムさん、あそこ。
…あの白いビルのまん中あたりのアレ!!
どうです?」

チエはビル角にあるカラオケ屋を指差しました。

イサムはそれを見て笑った。

「チエさん、ホント律儀なんだから…」

チエはイサムの方に真っ直ぐに手のひらを突き出すと、イサムに甘えたように「ん♪」としました。

チエが甘えん坊の子どものような顔をしてニコニコとイサムを見て微笑んでいる。

イサムは自分の手を出すとチエの白く冷たい手のひらをギュッと握りしめました。

「イサムさん、夏でも無いのに手のひらが汗でベタベタ」

チエがイサムを見つめて言いました。

イサムは慌てて、つないだ手を引っ込めるとボワボワに膨らんでいる防寒服で自分の手をゴシゴシと拭きました。

「ご無礼つかまつった。拙者、緊張の余り汗ばんでしまいました。 かたじけない」

イサムはばつが悪そうな顔をして言いました。

チエはプッと小さく笑いました。

そして胸を反らして言いました。

「なんも、なんも。さすけねぇ~」

「ならばチエどの、今夜もひとつ勝負と参りましょうか?」

「はい。イサムどのには負けませぬぞ」

チエは元気に答えました。

二人は顔を寄せあうと「アハハ」と笑いました。

そして、二人は恥ずかしそうに手をつなぎ、そっと指を絡めました。

イサムとチエの二つの影が…東京の夜に優しくとけて行きました。


完。


★★★あとがき★★★

手のひらの恋…これで終わりです。
楽しく読んでいただけたでしょうか?

中年の男女が出会い、ゆっくりと恋に落ちていく。

私が書いた、この物語は、いい歳をした大人の淡い恋物語ですが、まどろっこしいほどに臆病な恋をするイサムとチエです。

私、、、思います。
恋に限らず人間は、歳を重ねたからと言ってスムーズに行動できるわけでは無いと。

寧ろ、歳を重ねて様々なことを経験して苦しみや悲しさを知ってしまったからこそ、物事に対して慎重になり過ぎることも、躊躇して前に進めなくなってしまうこともあるんじゃないのかな?

人間は歳を重ねた分だけ強く優しくなり、
そして歳を重ねた分だけ脆く臆病になるのかもしれません。

この物語の中に出てくるイサムやチエは、もう一人の私自身です。

もしも、貴方が物語の中のイサムやチエをほんの少しでも好きになってくれたのなら…
それは私にとっては最高級の称賛です。

貴方はイサムやチエを好きになってくれたでしょうか?
それとも嫌いでしょうか?

人は皆、弱虫です。
誰かに愛されたいのです。
そして誰かを愛したいのです。

もしも貴方が今、誰かを許せずにいるのなら、どうぞ許してあげてください。

何故なら、許すことでしか気づけない、見えてこない愛が、
そこには必ず隠されているからです。

そこに隠されていた愛は、もしかしたら貴方を幸せに導いてくれる愛かもしれません。

だから、貴方には許すことを知って欲しいのです。

私は、貴方がいつも笑顔と幸せに包まれることを願って止みません。

最後になりましたが、誤字脱字、不適切な表現等が多々ありましたことをお詫びいたします。

私の拙い物語を読んでくださり、ありがとうございました。

作者:中村千恵子
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2015.03.26 Thu l 手のひらの恋… l コメント (0) l top

手のひらの恋…その9話
作:中村千恵子

東京の街は眠らないと言うが本当にそのとおりだ。

夜も更けていると言うのに、街を歩けば肩がぶつかるほどに人が溢れている。
電車は遅くまで運行しているし、通りにはひっきりなしに自家用車やタクシーが走り抜けていく。

建物には昼間と見間違うばかりに灯りが煌めいている。

コンビニや飲食店は24時間営業で、便利なこと、この上ない。

いったい、この街の人たちはいつ眠るのだろうかと、コチラの方が心配するほどだ。

イサムは夜の街、東京にいた。
仕入れと市場調査を兼ねて上京してきたのでした。

イサムは秋田生まれの秋田育ちだから東京に関しては何の知識もない。

スマートフォンに登録してきた住所と電話番号と地図のみが頼みの綱です。

イサムは道に迷いながらも仕入れを済ますと、その荷物を東京から秋田の自分の店宛へと送りました。

すっかり日が暮れて夜になってしまいました。

イサムは今日は昼飯も食べずに歩き回っていたのでした。

発送を終えたイサムはホッとして、ようやくゆっくりと東京の街を眺めました。

東京の街は、溢れんばかりの人でごった返しているが、知っている人など一人もいない。

行き交う人で溢れ、賑やかであるはずなのに、なぜかしら寂しい~。

東京にいるイサムは、自分が地球上でたった一人の人間であるかのように、心細く寂しく感じられました。

イサムは、思わず空を見上げました。

星は一つも見えませんでした。

もしも、星が煌めいていても、ネオンの灯りで星は見えないのでしょう。

星が一つも見えない空を見たら、イサムは更に寂しくなってしまいました。

そのとき、イサムはふっと、この街の空の下にチエが住んでいるのことを思い出しました。

すると、イサムは、どうしても、どうしてもチエに会いたくなってしまったのです。

イサムはズボンのポケットからスマートフォンを取り出すとチエに電話をかけました。

「もしもし。チエさんですか。ご無沙汰してます。俺、秋田のイサムです。わかりますか?」

「はい。もしもし。…イサムさんですね。ーーーもちろんわかりますよ」

チエは突然の電話に驚いた様子でしたが、明るい声でイサムの電話に応えてくれました。

「先日は色々と送っていただいて恐縮です。ありがとうございました」

「いいえ、どういたしまして」

「有りがたく頂戴して、大事に使わせていただいてます。お礼も言わずにいてすみません」

「いえ、いえ。そんなこと…」

「実は俺、今、東京にいるんです。もしーーー あっ、チエさんがお時間があって暇だったらでいいのですけど、夕食をご一緒していただけませんか? 俺、東京の街は知らないし、明日は秋田に帰るんです。折角東京にいるのだからチエさんに会いたくて…電話してみました。 夕食、行きませんか?」

チエはイサムからの突然の申し出に驚きました。

でも、それと同時にイサムが自分のことを忘れずにいてくれて、わざわざ電話をかけてきてくれたことを嬉しく思ったのでした。

「わかりました。では、一緒にご飯を食べましょう」

チエはイサムとの食事を快く了承してくれました。

そんなわけでイサムとチエは急遽、会うことになったのです。

「俺、どこに行けば良いですか?」

チエは待ち合わせ場所に東京駅を指定してきました。

恐らく、東京駅ならイサムでもわかるだろうとチエが気づかってくれたのでしょう。

「電車を降りて改札を出るでしょう。すると八重洲口と書かれている場所がありますから、其所にいてください。10分ほどで行きますから」

「分かりました。八重洲口ですね。動かずにいます」

イサムは八重洲口のところで往来する人たちを横目に見ながら、まるで親のお迎えを待つ子どものようにチエを待っていました。

イサムは上京して、昼間は仕入れに奔走していました。

イサムは、知らない街を必死になって駆けずり回っていたので気づきもしなかったが、こうして冷静になってみると自分は東京の街で浮いているのではないかと思い始めました。

(さすが東京の人は違うな。洒落でるわ!! まんず、どの人もテレビに出てくるようななりして小綺麗だごど)

イサムはボワボワに膨れている防寒服を着て上京したことを後悔していました。

(これからチエさんと会えると言うのに、俺は何処から見てもお上りさんじゃないか。
こんな田舎くさい格好じゃチエさんが嫌がるかもしれない。
チエさんに会えるならもっとお洒落をしてくれば良かったなぁ~。
んだども、出で来るどぎは秋田は雪だったもんなぁ~)

イサムは誰に聞かれた訳でもないのに自分で自分に言い訳をしました。

やがて、前方からイサムを見つけたチエが大きく手を振りながらコチラに向かって歩いて来ました。

イサムは胸の前で小さく手のひらをヒラヒラさせました。
手を振るなんて恥ずかしすぎてイサムには出来やしないのです。

チエは薄っぺらい1枚仕立ての白い春コートを着て颯爽と現れました。

当たり前です。

東京は梅の花も散り、もうすぐ桜が咲くのですからね。

「遅くなりました。待ちました?」

チエはイサムに頭を下げて詫びました。

「いいえ、俺も来たばかりです。 それより、俺、これで大丈夫ですか? チエさん、俺と居て恥ずかしぐないですか?」

イサムは、着ていたボワボワの防寒服をバタバタとしてチエに見せました。

「何を言っているのですか。 全然大丈夫ですよ」

チエは笑って答えてくれました。

イサムはチエが即答してくれたことをとても嬉しく思いました。

「イサムさん、何が食べたいですか? ご案内しますよ」

「ええっと、安い鶏料理が喰えるとこありませんか? 俺の店、夕方からは焼き鳥屋になるんです。だから東京の鶏料理を参考にしたくで」

「居酒屋なら安い鶏料理も多く取り扱ってますけど…」

「あぁ~それ、それ。其処がいいわ」

二人は連れだって近くの居酒屋に入りました。

そこはイサムが住む秋田では見たことがない居酒屋チェーン店です。

案内されて席についた二人は取りあえずビールを注文しました。

「後は選んでおきますね」

チエが言うと、テーブルのところでひざまづいていた店員は、気にする風でもなく立ち上がって厨房へと行ってしまいました。

チエはメニュー表をイサムに渡しました。

イサムは食い入るようにメニュー表に載っている鶏料理を見つめていましたが、やがて頭を掻きながら言いました。

「いゃぁ~参ったわ。やっぱり東京ですね。 鶏だけでもこんなにメニューがあるんですね。それにこの値段、とても俺には真似できねごどです。 こんなごどしたら忽ち店が潰れちまうわ」

チエは苦笑いしました。

「でもね、値段は確かに安いけど、安いなりの味なのよ。 けして美味しいとは言えないものばかりなの。 大きな声では言えないけど、安かろう悪かろうなの」

注文したビールが運ばれてきました。
チエは、店員を呼び止めると鶏料理の全種類を注文しました。

「乾杯~」

二人はビールを呑み、互いの近況を報告しあった。

そこで初めてイサムはチエが独身であること、父親が亡くなり母親は老人ホーム暮らしをしていて、チエは一人ぐらしをしていることを知りました。

チエも、イサムが独身であること、母親が亡くなり父親と二人で暮らしていることを知ったのでした。

そうしていると、注文していた鶏料理が次々と運ばれてきてテーブルに並べられました。

二人はそれを食べた。

「ねっ?…見た目ほどの味じゃないでしょう?」

チエが口元に手をあててコソっと言いました。

イサムは気難しい顔をして、それらを食べていましたが、チエの方に体を傾けるとコッソリと答えました。

「うん。 確かに不味い」

イサムとチエは顔を見合わせて「アハハ」と笑いました。

二人は呑んでは食べて、話しては大いに呑んで、食べて、そして笑いました。

お腹がイッパイになるとイサムは急に真面目腐った顔をして言いました。

「今日は突然連絡して、すまんことでした。
驚いたでしょう?
それと、こうしてお世話になってしまって…チエさんには本当に感謝してます」

チエは「いいえ」とでも言うように首を振りました。

「んでも俺、秋田に帰る前にチエさんに会いたかったんです」

そう、言われたチエはポウッ~と顔を赤らめました。

「とーーー実はーーー俺、もうひとつチエさんに話があります。
聞いていただけますか?」

チエはあまりにも真面目腐ったイサムの様子にビクッとしました。

イサムは、チエを真っ直ぐに見据えると言いました。

「加賀谷イサム、馬齢39。こんな田舎者の俺で甚だ恐縮ではありますが、もしも御迷惑でなければ、結婚を前提に俺とお付き合いしていただけないでしょうか?」

イサムは耳まで赤くして、額にはビッショリと汗までかいている。

チエはビクッと再び体を震わせました。

それから、小さな小さな声でイサムに聞きました。

「結婚をーーー前提にですか?」

「そうです。 結婚をーーー、結婚を前提にお付き合いしていただきたく」

「…していただきたく…」

「はい。 していただきたい…です!!」

「…ですか…」

「…激しく…です」

イサムはチエを見つめたまま、微動だにしません。

チエはイサムの言葉に顔が益々赤くなっていくのが自分でもよくわかりました。

恥ずかしくて顔を上げれません。

(私、きっと茹で蛸のように顔が真っ赤だわ)

その間もイサムはチエから一時たりとも視線を外しません。

チエはイサムの真っ直ぐな熱い視線をビリビリと感じていました。

やがて、顔を上げたチエはイサムに言いました。

「ワタクシ仙葉チエ、齢36。こんな私で良ければ、宜しくお願いいたします」

イサムは(ふぅ~)と大きく息を吐いて、それから言いました。

「ありがとうございます」

「とんでもない。 ふつつかものですが宜しくお願い致します」

チエは深々と頭を下げて静かに言いました。

イサムとチエは正式にお付き合いすることになった。

つづく。

★次の10話投稿で、この物語は終了致します。
私の気まぐれな物語投稿にお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。
心より感謝申しあげます。
ラストの10話までお付き合いいただけたら幸いです。
千恵子(*^.^*)
2015.03.25 Wed l 手のひらの恋… l コメント (0) l top



手のひらの恋…その8話
作:中村千恵子



北国の春の訪れは実に香しい。

子どもの手のような清きコブシの花が山肌に顔を出すと永くて寒すぎた冬も、ようやく終りを迎えます。

やがて、枯れ木だったような梅や桃の枝々も白や赤なピンクの小さな蕾を膨らませます。

軒下では「チタン、ポタン、チタン、ポタン」と雪解け楽団が弾けながら早春のメロディーを奏で。

地面からは目を覚ました雪割り草が、うぶ毛顔を出して「ふわぁ~」と背伸びをする。

道ばたに邪魔臭そうに追いやられていた雪や氷はその身を水に換えて辺りをびしょびしょに濡らしてどこかに流れ行く。

猫柳は寒風にしなりながらも懸命に灰色の花穂を育てている。

小川は氷の欠片を追いかけてちょろちょろと音を立ててはしゃぎ出す。

山々は裏寂しい水墨色を脱ぎ捨てて茶色や群青色をまといお日様を仰ぎ見る。

そうして白鳥が群をなして渡りだすと、北国にも本格的な春が到来するのです。

イサムは殊のほか、この雪解けの季節が好きです。

辺りは日に日に春めいて、活動を止めていたものたちがアチラでもコチラでも目を覚まし、やわらかな色を携えながら次から次へと動き始める。

躍動…。

そんな言葉が北国の春にはぴったりなのです。

ある日のことでした。

イサム宛に荷物が届きました。

それは美しい桜色の紙に包まれた箱でした。

「店長、お荷物が届いてますよ」

イサムは仕入れで店を空けていたので荷物を受け取ったのはタエコだった。

「女性からですよ。ウフフ。もしかして店長の好い人からですかぁ~」

タエコはイサムをからかうように言った。

「女性? 」

イサムは戸惑いながらも荷物の送り主を確認した。

そこには[東京都××区×××町20ー6
仙葉チエ
電話×××ー××××ー××××]と記されていました。

仙葉チエ…イサムはその名前を見て胸が高鳴った。

あのチエだと、気づいたのです。

イサムは、チエはあの日のことなど、すっかり忘れてしまったのだろうと思っていたので、とても驚きました。

タエコはイサムの横に来ると興味津々で聞いてきた。

「店長の彼女だったりして…ウフフ」

タエコは親戚だからなのか、イサムに対して遠慮と言うものを知らない。

時々、イサムは無遠慮で無神経なタエコのことが堪らなくイヤになることがある。

しかしながら、そんな理由で両親の代から働いてもらっているタエコをクビにすることはできない。

だから、イサムは個人的なことはタエコには話さないようにしていました。

もちろん、チエとのこともタエコには内緒である。

聞かれたくないし、話すつもりもなければ、知られたくもない。

「バーカ、彼女であるわけがないだろう~。 単なる仕事上の知り合いだよ。さっ、クダラナイことを言ってないで開店、開店」

イサムはそう言ってタエコの背中をドアの方にグィっと押し出した。

背中を押されたタエコはよろけながらドアに向かって行った。

イサムはその隙にチエから届いた箱を自分のジャンバーの下にそっと隠した。

これ以上、詮索されるのがイヤだったのです。

押し出されたタエコは店のドア前に行くと、店の鍵を開けた。

その間、イサムは高鳴る胸を押さえてコッソリと深呼吸をして息を整えた。

今日も、いつもの通りに「ひねもす」が開店した。

閉店後、お客さまとタエコが帰り、イサムは一人っきりになると、チエから届いた箱を取り出して開けた。

箱の中にはイサムの店で使用しているコーヒー豆が八袋と「ひねもす」と刺繍されたコースターが八枚入れられていました。

チエは「ひねもす」でイサムが淹れていたコーヒーの銘柄を覚えていて送ってくれたのだ。

そしてもうひとつ…申し訳なさげにひっそりと手紙が添えられていました。

イサムは手紙を開いてみた。

厳寒の候、 お元気にお過ごしでしょうか。
私は雪の日に助けていただきました仙葉です。
あの節は本当にありがとうございました。
重ねて、お礼が遅くなりましたことを深くお詫び申し上げます。
心ばかりですが、お礼の気持ちを送ります。
ご家族、皆さんで飲んでいただけたら嬉しく思います。
まだまだ寒い日が続きますので、くれぐれもお身体を大切になさってお過ごしくださいませ。
仙葉チエ

イサムはそれを読んで、東京にいるチエのことを思った。

チエからの手書きの手紙。

箱を包んでいた美しい桜色の包装紙とお揃いの便箋に黒インクで綴られた丁寧な文字。

誰かに見られても言い訳が立つ文章。

…あえて(ご家族、皆さんで)と書かれた、選んだであろう言葉。

八袋のコーヒー豆。
八枚の「ひねもす」と刺繍がされたコースター。

…八は。
…末広がりの験担ぎだろうか。

イサムは…これがチエの本質なんだと一人静かに思った。

つづく。
2015.03.24 Tue l 手のひらの恋… l コメント (0) l top



手のひらの恋…その7話
作:中村千恵子

チエはイサムにもらった(ひねもす)の名刺を見ていました。
お世話になったイサムに何かお礼をしなければと考えあぐねていたのです。

しかし、いざお礼をしようと思ったチエは、はたと困ってしまいました。

…何故ならチエはイサムの正体をまともに知らなかったからです。

チエが知っていることと言えば、イサムは(ひねもす)の経営者であることと、優しい人物だと言うことだけです。

イサムが独身なのか既婚なのか…それさえも知らない。

もしも、イサムが既婚者だったとして、ある日突然、東京の女からお礼の品が届いたとしたら、イサムの家族はどのように思うでしょう?

もしも、あの夜のことをイサムが家族に内緒にしていたとしたら、送ったお礼の品のせいでイサムが有らぬ疑いを掛けられてしまうのではないだろうか?

もしも、イサムが妻帯者だったとしたら夫婦仲や親子仲に波風を立ててしまうのではないだろうか?

そう思うと、チエはお礼をして良いものか悪いものか、訳がわからなくなってしまったのです。

…チエは懸命に、あの夜のことを思い出していた。

イサムは、あの夜(何か困ったら何時でも電話してくれていいから)と言ってくれた。

もしも、イサムが既婚者だったならば、家族の目を気にして、そこまでのことを言ってくれないのではないかな?

あのような優しいことを言えるのはイサムが独身だからなのではないかな?

いや、待てよ。
純粋に人助けをしてくれる人だっているはずだわ。
イサムさんはそのような人かもしれないわ。
チエは頭の中がグチャグチャになってしまいました。

イサムがくれた名刺の裏にはイサムのフルネームとイサムのスマートフォーンの電話番号が記されている。

電話をしてお礼を言えば一発で解決するのはチエにもわかっている。

しかし…しかしながら…チエには自分から電話をかけれるほどの勇気はないのでした。

この頃、チエは仕事帰りにデパートに立ち寄ってはイサムへのお礼の品を探していた。

だけど何も選べない。

お菓子なんて珍しくもないし、ビールやハムの詰め合わせでは、お中元やお歳暮みたい。
洗剤やタオルの詰め合わせでは快気祝いみたいだ。

かと、言って図書券じゃ入学祝のようで、商品券では、あまりにも味気ない。

何を見ても迷ってしまって、チエはいつまで経っても何も選べずにいました。

やっぱり電話でお礼を言おう。

そう思うのだが、チエは、あの日から何度もスマートフォーンを握りしめては止めて、また意を決しては止めることを繰り返していました。

今ではイサムの電話番号なら、そらでも言えるくらいに暗記してしまった。

お礼の言葉もスラスラ言えるほど練習をしてみた。

だけど、いざとなると、やっぱり電話をかけれない。

(イサムさんは、私のことをお礼も言わない無礼な女だと思っているだろうなぁ~?)

チエは、そう思って落ち込んでしまうのでした。

いったい、こうして、幾日が過ぎていったのでしょう?

チエは一人の部屋で今夜も深い溜め息をつきました。

その夜、チエはイサムの夢をみました。

夢の中のイサムは洗いざらしの水色のシャツを着てコーヒーを淹れていた。

そして、軽やかな様子でサンドイッチを作っていました。

サンドイッチが出来上がるとイサムはご機嫌に(ふふふ~ん)と鼻を鳴らしてチエにサンドイッチを得意気に掲げて見せてくれました。

窓の外には雪がフワフワと舞っています。

何処からか通りを走る車の音が聴こえてくる。

店内には、あの日二人で聴いた有線放送の音楽が流れていた。

夢の中のイサムが笑っている。

チエも笑っている。

曇った窓硝子にチエは指で…(ある日~)と書いた。

すると、イサムはチエの背中越しから(森の中~)と書いた。

…(イサムさんに出会った)と書いたチエ。

…(雪降る寒い夜、チエさんに出会った)と書いたイサム。

二人の指先に窓硝子の冷たさが伝わってくる。

イサムもチエも何も語らない。

その代わり二人はにっこりと微笑んだのでした。

そんな時間がとても居心地が良くて、あたたかくて、まるで日だまりのよう~。

そんな夢でした。

目覚めたチエは目を開けてキョロキョロと辺りを見回しました。

今さっきまで見ていたものは夢なのか、現実なのか判断がつかなかったのです。

鼻腔の奥深くまで感じたコーヒーの香り。

店内のぬくもりと窓辺の寒さ。

窓ガラスの冷たさ。

夢の中のひとつひとつが現実のことのように感じられました。

チエは馴染みのある天井の木目を見て、ようやく、あれは夢だったと悟りました。

すると、訳もなく涙が溢れてきたのです。

チエはその涙を拳でぬぐうとベットから起き上がった。

泣いている暇なんかない。
今日も仕事が待っている。
起きなくちゃ。

チエは牛乳をかけたシリアルを掻きこむようにして食べると、急いで職場へと向かいました。

住宅展示場は、その日も賑わいを見せていました。

なん組ものお客様が来場していた。

チエはそのようなお客様に一日中、住宅の案内をする。

大抵の男性は庭とお風呂を気にかける。
女性はキッチンとリビングを気にかけて見ている。

この仕事では≪女性を落とせたら契約を取れる≫と言われている。

日ごろからチエも社長から「女性に喜ばれるように話をするように」と指導されていました。

ガヤガヤと話し声が近づいて、またお客様がお見えになりました。

「こんにちは~。 いらっしゃいませ」

チエは明るく笑顔で話かけた。

オープンハウスに入ってきたご夫妻は
、ご主人様がお庭を、奥さまはキッチンを念入りにご覧になっていた。

「あなた~。対面キッチンで素敵よ」
奥さまは気に入ったようでしきりに旦那様に話しかけていた。

チエはつかさず奥さまに話しかけました。

「素敵なキッチンですよね。
こちらの収納は扉もお好きな色を選べるんですよ。
お手入れも簡単なので、とても人気があるキッチンになっております。
それに見てくださいな。
この家はリビングの窓が大きいのでキッチンにいても終日陽射しが入って明るいのですよ」

奥さまは(なるほどねぇ~)と収納扉を開けたり閉めたりして、満足げなご様子だ。

「流しも広いし、使いやすそうね。対面キッチンなので、ここから料理やコーヒーなどをサッと出せるのね。陽射しが一日中溢れてるから明るくて気持ちが良いわね」

チエは…その時(あっ!!)と閃いた。

終日…ひねもす…。

嬉しくなったチエはひとり…うふふと微笑んだのでした。

その日、チエは仕事を終えるとウキウキとデパートへと駆け込んだのでした。

つづく。
2015.03.23 Mon l 手のひらの恋… l コメント (0) l top



手のひらの恋…その6話
作:中村千恵子



休日になったある日、チエは母が入居している老人ホームを訪れた。

娘として、知らんぷりもして居られないと思ったからだ。

母が入居している老人ホームは東京から電車で一時間ほど離れた★県に所在していた。

老人ホームは山の中腹にあり左手には市街地が一望できる。
右に目をやると学校や町の主要な建物などが肩を寄せあうように、こじんまりと建っているのが見えた。

町をグルリと縁取るように細い川が曲がりくねって薄く淡く流れていた。

山懐に包まれた町は緑が溢れている。

あちらこちらに森や林や田畑がジグソーパズルのピースみたいに見える。

目に映る景色の7割りが瑞々しい緑色だ。

どこから空を見上て見ても空は高く広く丸く見えた。

清らかに澄んだ空気がしなやかにそして優しく目や肌に刺さるようだ。

もしも、透明と呼べる色が目に見えるのならば、このような色なんだろうなぁ~とチエは思った。

ここが母が選んだ町。

…いかにも母らしい。

チエは深呼吸すると老人ホームの受付窓口に顔を出した。

「こんにちは。私は先日からコチラでお世話になっている(仙葉たつ子)の娘です。挨拶に伺いました」

受付窓口のオジサンは名簿を確認して内線電話をかけた。

暫くすると自動ドアが開いて中から、いかにも人の良さそうな中年男性がお辞儀をしながらにこやかに出迎えてくれた。

「仙葉チエさんで宜しいですか?」

「はい」

「それは、それは。 遠くから、ようこそおいでくださいました。どうぞこちらへ」

チエは促されて老人ホームの事務室へと入っていった。

中年男性は手を大きく広げてチエに椅子を勧めた。

「私がここの責任者の久保です」

久保と名乗る男はピシッと90度に頭を下げてお辞儀をした。

チエも静かに頭を下げた。

「母がお世話になっております。 私は仙葉たつ子の娘のチエです。もっと早く来たかったのですが、なかなか来ることができなくて挨拶が遅くなりました。すみません」

チエは東京土産を差し出して挨拶をすると勧められた椅子に座った。

「こんな田舎でビックリしたでしょう?」

久保は東京土産を受け取るとにこやかに言った。

チエは(いいえ)と言う風に頭を横に振った。

「ところで母の様子はいかがでしょう?」

チエは率直に聞いた。

「たつ子さんなら、とてもお元気ですよ。 あっ、せっかくですからお呼びしましょうね」

チエは慌てて頭を振った。

「いえ、会わなくていいです。
それより、気になっていたのですが、突然に入居だなんて、母ったらコチラに多大なご迷惑をかけてしまったのではないですか? 本当に申し訳ありません」

チエは項垂れて言った。

「突然って? そんなことはないですよ。私どももたつ子さんのような明るい方に入居していただいて、みんなで喜んでいたところです。 何せ、たつ子さんはみんなの人気者ですから歓迎会まで開いてしまった次第でして…」

久保は嬉しそうに言った。

しかし、チエにはシックリしない話だった。

「えっ、どう言うことでしょうか? 皆様とは初対面の母が人気者だなんて…。私には言われている意味がサッパリわからないのですが」

久保は不思議そうな顔をした。

「えぇっと…。チエさんはご存知ではなかったのかな? たつ子さんは入居前に何度もここに来ていたのですよ」

「えっ? 母がですか?」

「はい。 あっ、ご主人様といつも御一緒に…でしたけど」

チエは驚いた。

「父も…ですか?」

「そぅ~です。 ご主人様といつも御一緒に来られていました」

チエは身を乗り出して聞いた。

「その話を詳しく教えてくださいませんか?」

久保はチエの真剣な顔を見ると頷いた。

「仙葉さんご夫妻は、もう~10回はこの老人ホームにお見えになっておりました。(私たちには一人娘がいるけれど娘には老後の迷惑も負担もかけたくない)と仰られましてね。仙葉さんご夫妻は、ここに夫婦で入居することを希望しておいででした。ですから入居契約金も既に満額支払い済みで。お二人は何度も遊びに来てくださり、入居者とカラオケをしたり、麻雀をしたりしていたのですよ。仙葉さんご夫妻は明るい方なのですぐに入居者にも受け入れられて、みんな仙葉さんが来てくれるのを心待ちにしていたのです。しかし、ご主人様が亡くなり、奥様だけが遺され、たつ子さんの足もいつしか遠退き、この先はどうなるものか?と思っていた矢先にたつ子さんが入居してきて。ご主人様と一緒じゃないのはとても残念なことですが、入居者たちはたつ子さんの入居を喜んだのです。ですから歓迎会まで開いてしまいました。老人ホームは…特に、こんな田舎の老人ホームは、いつの間にか入居者たちが家族のようになってしまうんですね…。
ここに要るとみんな、血を分けた家族以上に家族なんですよ」

チエには、にわかには信じられない話だった。

でも、冷静になると今までの父母の言動を思い起こせば思い当たるふしも確かにあったのだ。

両親は★県の旅番組などをみると「最期ぐらいは綺麗な空気を吸って逝きたいものだわね」と言ってみたり、テレビに何処かの孫などが映ると「たまに会う孫ほど、可愛いものは無いと言うからね」などと言っては二人で笑っていたものだった。

そんなとき、チエは何も考えず単なる一般論を話しているのだろうと思い、軽く笑って聞き流していたのだった。

だけど、いつも言っていたじゃないの?
「早くチエの良い人に会わせてくれ」とか「チエの旦那と酒を呑めるのはいつになるかな?」って。

それなのに…父と母はチエには何の説明もせずに終の棲家を決めていたのだ。

そのことがチエには…とてつもなく淋しかった!!

チエは捨てられた犬猫の気持ちが初めてわかったような気がした。

父と母は何故、何も言ってくれなかったのだろうか?

いつかは話してくれるつもりだったのだろうか?

30年以上も親子で暮らして来たのに、どうして何も話してくれなかったの?

チエは私たちの宝物よ、と言ってくれたあの言葉は嘘だったの?

チエが(母さん、どうして?)と考えているとホールの方から入居者たちの笑い声がコチラまで聴こえてきた。

その笑い声の中に一際高く響く笑い声があった。

それはチエの母のたつ子の笑い声だった。

チエは久しぶりに耳にする母の笑い声を聞いて(母さんは、ここでみんなと上手くやれているのだ)と感じた。

母の、いつになく楽しそうに笑い声を聞いているとチエは今にも泣き出しそうになってしまった。

あんなに楽しそうな母の笑い声を聞くのは何年ぶりだろうか。

そんなことをウダウダと考えていると、ガラッ~っと事務室のドアが開く音がして女性スタッフが事務室に入ってきた。

女性は来客のチエに気づいて「お疲れさまです」と愛想良く声をかけてきた。

そしてチエの顔を見ると(キャッ)と身を縮めて言った。

「こんにちは。もしかして、あなたはたつ子さんのお嬢さん?」

チエはコクリと頷いた。

「やっぱりそうよね。 美人だからすぐにわかったわ。だってね、たつ子さんったらいつも言ってるのよ。(私には美人の娘がいるのよ。そりゃ、ビックリするぐらい美人で優しい自慢の娘なんだから)ってね。あなた、本当に美人ね。そうだ、たつ子さんを呼んで来なきゃ」

女性スタッフはたつ子を呼びに行こうと踵を返した。

チエはすぐさま女性の腕を掴んで言った。

「待ってください。今日は此れで失礼します。折角ですが、帰りの電車に間に合わなくなりそうなんです。すみません。どうぞ、母のことを宜しくお願い致します」

「電車の時間じゃ仕方がないわね」

女性スタッフは、さも残念そうに言った。

「また、来ます」

チエは深々と頭を下げて母の住む老人ホームを後にした。

久保と女性スタッフが老人ホームの外に出てきて、チエが見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

チエの頬に大粒の涙がボロボロと幾すじも流れ落ちた。

つづく。





2015.03.20 Fri l 手のひらの恋… l コメント (0) l top